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2007年05月30日

しみじみ教

朝刊の朝の食卓に,本を読んでいたら「しみじみ教」という教えに出会った。
とあり、とても共感したと書かれていました。
大学時代の先生の口癖でもあり、このところ私もこのしみじみが分かり始めていました。
読んで私も共感!!

世の中のめまぐるしい流れに心を病んでいることにも気付かずに、
それでも一生懸命に頑張ってしまい、自分見失ってしまっている事。
あるよね。
自分の出来る範囲を超えてもなんとかしたいと。
それって現実を受け止めていないことだよね。
誰かと競争したり、否定したりと、心が疲れていく。
あるよね。

私もこんな時期がけっこうあったんだよね。
でもね、最近だんだん年齢をありがたく戴いているうちに
しみじみと物思うことがふえてきました。

筆者のいう中で心に特に響いたところは、
「つらいことがあれば、人生だねぇとしみじみ。」
こんなふううにとらえたなら、つらいことも吸収し栄養になるよね。

最後にこうしめてありました。
「うれしいときはうれしさを、悲しいときは悲しみをじっくり受け止め
消化して、どんなときでも、しみじみお茶をすするような余裕を心に持ちたい。」と。

あるがままに、ゆっくりと、しみじみと人生をかみしめていきたい。

投稿者 春野桃 : 13:11 | コメント (0)

2007年05月29日

断食療法(2)

 断食は指導者についておこなうのがよろしい。断食はただ寝ながらテレビを観ていればいいというものではない。自己流でやってしまっては効果より弊害がまさる。
第一に、運動療法をしないと、筋肉が萎縮し、可動域が小さくなってしまう。生活を元に戻したときに不都合が出るのは良くない。
第二に、食欲とどう向き欲合うかだ。食欲をほとんど感じないという人は、終わって、普通食に戻したときこそ、危ないのだ。急激に食欲がでてくることがある。異常食欲に支配され、満腹感を感じることなく、食べ続けるという行動があらわれることがある。
だから、自己流では難しいのだ。

 中庸の生活、これを求めるが故の断食療法ではなかろうか。

 欲望には限りがない。しかし、そう言われても、自分で体験しなければわからない。
ある状況に置かれれば、満たされることなき欲望に行動を支配されてしまうものだということを知らなければならない。しかし、だからと言って、自分は欲望の一部ではない。欲望に支配されることなく、欲望からはなれた自分であるべきであろう。


投稿者 恵比寿 : 11:19 | コメント (0)

2007年05月28日

自分の時間

 異なる立場を理解するのは難しい。
 よく言われることですけど、本当にそうだなあ、と思います。
 ぶっちゃけ、親と子がわかりあうのって難しいなあ、と考えている今日この頃です。社会が大きく変化して、育った環境があまりにも違う。でも、たとえ自分とは異なっていたとしても、相手のことを否定的に見ているうちは、本当の姿って見えてこないんじゃないかなあ、と思います。

 新聞にこんな記事が出ていました。
 いわゆる「自分探し」についてアンケートをとったところ、親と子ではっきりと違いが出たらしい。たとえば「自分探し」は何歳まで許されるか、という問いに対して、親の場合は「年齢を問わず許されない」という回答もけっこうあったようで。

 「自分探し」ってブームみたいになってましたからね。それに違和感を覚えたり、否定的に見る向きは今までにもあったと思います。「個性的であること」を押し付けるような形で使われたら確かに問題だと思うし、中には、自分も共感を覚えた意見もありました。
 人は本来他人と違って当たり前なんだから、無理に探そうとしなくてもだいじょうぶ、要は本当の自分は足元にあるってことなんでしょうね。
 けど、「自分探し」を全否定していいのかと言われると、自分も似たようなことやってたし、そういう風には思えなかったです。

 私は、これだけ「自分探し」が言われるのは、やっぱり「必要に迫られて」があると思うんですよ。要は探さなければならないほど、本来そこにあるはずの「自分」が行方不明になっている現状もあるんじゃないかって。
 じゃあ「自分」ってなんなのか。顔が違うとか育った環境が違うとか、能力の違いとかは当然だけど、でもそういうことじゃなくて。
 同じ花を見てもあなたと私が感じることは違う、同じ意見を聞いても考えることが違う、私は野球が好きだけどあなたはスポーツにすら興味が無い、代わりに音楽を聴いたらじっとしていられない。
 じゃあ、そういうものってどこから生まれるんでしょうね。
 それは生まれてから今日まで積み上げてきた、自分の生きた時間じゃないでしょうか。
 じゃあ今度は、自分の時間ってなんなのか(笑)。
 要するに、誰でも経験する、考えたり、感じたり、悩んだり、そういう全て。でも私たちは、忙しすぎて、ふとそういった人間らしさを喪失していた、なんて経験、覚えがありますよね。
 もしもそういう状況が、まだ発育途上の子供のうちからずっと続いていたとしたら、どうなると思いますか。

 将来のことに悩むのは、若いうちの醍醐味みたいなものですよね。
 自分の夢と能力とのギャップに悩んだり、壁に当たった時、力が足りなくてもがいたり、周りに助けてもらったりしながら、自分なりの答えを(不完全なものであっても)見つけたり。
 若者が悩んじゃいけないなんて言う人は多分いないと思います。
 でも、今、「社会が子供に求めること」を全部真面目に実行したとしたら、正直悩む時間すらないと思うのですが……。

投稿者 YUKI : 15:39 | コメント (0)

2007年05月26日

すばらしき思い出

私がまだサラりーマンだった頃、東京の郊外へ走る電車に乗っていた時の事です。

静かな車内で席はほぼ埋まっていました。カーブにさしかかり、電車は大きく揺れ、座席の下に置き去り
にされていた一本の空き缶が、カラカラ音をたてて転がり始めた。

一瞬、乗客の多くが、その空き缶に目をやりました。しかし、カラカラという音が止むと誰もがその空き缶から目をそらしました。私は次の駅で降りるので、その時その缶を持って降りようと考えていました。

その時、私の前の席にいた、若い母親が、横に座っていた4〜5歳位の女の子の耳もとで何かを囁き、
手提げバックから取り出したビニールの小さな袋を、そっと手渡した。

女の子は、ビニールの袋を持って、電車の揺れによろよろしながらも、とことこと駆けて行き、さっき転がっ
て手すりに当たったまま止まっている空き缶を拾いに行きました。

そして、空き缶を拾おうとして、かがんだ時、電車の揺れに耐え切れずに、頭を コツン!とドアにぶつけました。女の子は、母親の方を向き ニコッ!と笑いました。母親も笑いました。

女の子は、空き缶を袋に入れ、片手を前に突き出すようにして、よろよろと母親の所へ戻ってきました。
母親は、女の子の体を両手で抱きしめて、そして、小さな声で言いました。

「ありがとう。頭ぶつけて痛かったでしょう?」 女の子は、ハンカチで手をふいてくれる母親に、もい一度
笑って見せて、そして、小さな声で答えました。 「うん、ちょっとだけ」。

母と子の温かい愛のコミュニケーション。そして、母親から女の子への、すばらしい心からの贈り物。

私は、今も時々、この母と子を思い出しては心をを温めています。   合掌


投稿者 ZEN754 : 11:48 | コメント (2)

2007年05月25日

理想的なライフスタイル

皆様、いかがお過ごしでしょうか。ちょっと体調を崩し気味の龍之介です。ここ最近、気温の変化が激しいせいか、薄着だったり厚着だったりしてバランスがとれず、風邪を引いてしまったようです。
熱は無いようなので、さほど心配するほどではないのがせめてもの幸いです。しかし、最近は風邪を引くことがなかったせいか、ちょっとした風邪でも不安になってしまいます。特に、引きかけの時は喉が痛く、上手くしゃべることができないために、「このままだとしゃべることができなくなるんじゃ……」と不安になっていました。
きっと、風邪を引き慣れている人であれば、ここまで心配することもないのでしょうが、いかんせん心配性の身であるため、お恥ずかしい限りです。余り健康でありすぎるのも考えものかもしれません。ただ、本当に健康であれば、風邪を引くこともないですけどね。

とりあえず、風邪を引いたときは十分な休養と十分な栄養が必要とのことなので、ちょっと奮発して美味しい物を食べたり(とは言え、最近は肉よりも野菜の摂取量が増えてきた)、睡眠時間を多めに取ったりして、何とか体を休めております。
あとは、もう気合ぐらいですね。「病は気から」という言葉あるぐらいですから気持ち次第で本当に病気になるのであれば、気持ち次第で風邪だって治せるはず。そんな根拠もない思い込みで風邪に立ち向かっています。一応は薬を飲んでいますが、あくまでもサポートってことで。あと、夕食後は飲む分に抵抗はないのですが、朝食や昼食後だと眠たくなってしまうのが難点です。飲むとすぐに眠たくなる体質なもので……。

ところで、五月ということもあり、五月病に悩んでいる人もいるのではないでしょうか。こちらは精神的な問題があるので、薬はもちろん、気合でカバーするのも容易ではないため、一度かかると治すまでにかなり時間がかかるようです。五月が終われば、五月病が治るかと言うと、そうでもないみたいですし(今度は六月病にスライドするとか)。
専門のサイトを見ると、日常生活でイライラしやすいという症状が見られやすいため、イライラを軽減するのが五月病対策につながるようです。
そのために「適度な休養」は必須なのですが、それだけでは余り軽減されないらしいです。そこで、リフレッシュになるようなこと=何か夢中になれるようなことを見つけ、それに没頭するとイライラが解消されるとありました。
やはり、仕事とプライベートのメリハリをつけるのがいいみたいですね。働くときや勉強するは一生懸命するけど、遊ぶときも仕事や勉強を忘れて一生懸命遊ぶというスタンスが理想的のようです。ONとOFFの切り替えができるのが、ストレスをためずに生きるコツかもしれません。
今のところ、五月病ではないけど(その代わりに風邪?)、こういう生き方ができれば、世の中もっと楽しめそうな気がします。きっとこういうのが理想的なライフスタイルなのでしょうかね。

投稿者 龍之介 : 00:04 | コメント (0)

2007年05月24日

体重3キロ減量

城谷小夜子です。
舞台が近いので、お菓子ダイエットを始めました。
するすると3キロ減量。
身体もほんのすこし軽くなりました。
昨日の稽古では、苦しくなり、こえrは酸素不足ではないかと、
コンビニで酸素を買いました。
今日の総ざらい稽古で、吸ってみました。
そのお陰かわからないけど
まずまずの調子。
ローズマリーとかいうのだけれど、
匂いはよくない。次は違う香りのを買ってみよう。
27日から、羽咋、金沢、大阪、京都、半田、東京の舞台です。
お近くのかた、出会えたら嬉しいですね。

投稿者 城谷小夜子 : 23:28 | コメント (0)

2007年05月18日

5月の旅

 5月も半ばを過ぎました。昨年の今頃は、九州(鹿児島〜熊本)に旅行してきました。親戚が一昨年大きな手術をしたもので、そのお見舞いがてら。
 気候も植生も文化も歴史も北海道とは違っていて面白かったですね。日本語の通じる外国に来たみたいに新鮮でした。
 「どちらから来られましたか?」と尋ねられて、「北海道です」と答えると、「日本の端からですね!」と驚かれたりもしました。
 食べ物もおいしく、黒豚のしゃぶしゃぶ、きんなごのお刺身、紫いものソフトクリーム、馬刺し、等々、食べ物について語り出すときりがなくなるのでやめておきますが(笑)。

 ちょうど天気もよく、鹿児島市内からは桜島と海がきれいに見えました。
 驚いたのは、あちこちで観光ボランティアの人に出会ったこと、観光客のための周遊バスがあって、値段も安かったこと。
 その他にもなんとなく「サービスの質」という面で北海道との差を感じてしまったような気もしたのですが……。
 そんなことを思ったのは、来年北海道でサミットが開かれるというニュースを聞いたせいもあります。
 各国の首脳とともに、報道陣の人達もいっぱい来るのでしょうね。その人達が北海道を好きになってくれればいいなあ、とちょっぴり心配だったりもします。
 もちろん北海道にもいい所はたくさんあると思いますが。

 旅行と言えば、失敗の記憶も色々あります。自分は体力が無い方だという自覚がなかったため、きゃあきゃあ、わあわあエネルギーいっぱいの同行者達についていけず、足手まといになって、1人で拗ねたり、自己嫌悪に陥ったり。
 今はそういう人間なりの「旅の楽しみ方」もあるかなあ、と思っていますが、自分のペースというものを知るだけでも、けっこう時間がかかるものなので。

投稿者 YUKI : 12:28 | コメント (0)

四半世紀の間に

皆様、いかがお過ごしでしょうか。散り行く桜に淋しさを感じる龍之介です。携帯の桜の画像を残してはいるのですが、道路に桜の花びらが散っているのを見るとやはり切なくなります。
ふと、「世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」と、在原業平が桜を待つ人の心を『古今和歌集』で詠んでいたのを思い出しました。桜を今か今かと楽しみにしていた時間は長く、実際に桜を堪能する時間はあまりに短いために、余計に切なさを感じるのかもしれません。さすがに、病院に行って3時間待たされた挙句、診療がたったの3分という状況にガッカリする気持ちとは違うでしょうけど。
とりあえず、これからは新緑の季節となり、鮮やかな緑色に輝いた木々が映えて見えるので、そっちの方に気持ちをシフトします。夏になれば森林浴も堪能できますし。

さて、先日放送されたドラマ『めぞん一刻』を見たのですが、かつて原作を読んでいたこともあり、とても懐かしい気分に浸りました。
主人公の五代役の人の朴訥とした演技が原作のイメージとマッチしていたこともあって、2時間ちょっとの放送時間もあっという間でした。ただ、ラスト数分でちょっと納得いかない部分がありましたが、まぁ、それはそれで。
そう言えば、ドラマのサブタイトルに「携帯もメールもないけど、僕らは一生懸命生きていた」とありましたが、よく考えたら当時(昭和58年)って、携帯電話なんてスパイ映画でしか見られない夢のまた夢のような話だし、メールなんてもってのほか(せめて、文通ぐらい)ですね。
電話は今では磯野家ぐらいしか見られない黒電話に代わってようやくプッシュフォンが台頭するようになったはず。ちなみに、前年の昭和57年12月にテレホンカード式公衆電話が開発されたものの、まだ羽田空港や成田空港などの一部でしか使えないものでした。
よく考えたら、まだNTTじゃなくて日本電電公社という名称ですし。それに、パソコンだってごく一部の専門家が使うもので、今のように家庭に普及していないですからね。

それが約四半世紀の時を越えて、ここまで文明が進歩したというのは驚きの一言でしか形容できないですね。伊東美咲とほとんど年齢が変わらない自分が言うのもおかしな話なのですが。
ただ、ノスタルジックな気分を味わう上も楽しめました。実際、管理人さんの部屋のテレビはチャンネルをひねる形式(当然リモコンはない)でしたから。
今後も不定期に続編を作りそうな感じでしたので、その時にはまた見たいと思います。

追伸:田中幸雄選手、2000本安打おめでとうございます。これからも日本ハムの兄貴として、チームを牽引し、更なる活躍を期待しています。

投稿者 龍之介 : 00:02 | コメント (0)

2007年05月17日

あなたなら大丈夫

第二の人生は穏やかにのんびりとのはずだった。
が、気が付くとせかせかしていた。
人生の旅路の友の夫に当たる始末。

こんなときは、手を休めるに限る。
そして、自分にいってあげる。
「よくやってるね。ここまでよくやったよ。」と、
そして、遊びに行く事が一番。

家を夫たけちゃんと出る。
住宅街を抜けると、すぐに田園風景が広がる。
見渡すかぎりの新緑が綺麗。草花が咲き乱れている。
いつのまにか入っていた肩の力がいつしか取れていた。
と、思い出した。
学生のころに習った事を、悩んだ事を、
改めて実感する。
長年の人生の癖は意識していないとまた顔を出す。

”ありのままの自分では受け入れられないのではないか、
と感じるとき、人は本来の自分とは異なった自分でなくては
ならないと思い込むようになる。
《こうでなくてはならない自分》や《こうあるべき自分》ではなく
ありのままの自分になることができるときに、変わりたい自分に成れる。

そうだよね。誰だって自分という存在には、弱いところや、
不完全ところは沢山あるよね。

そんな想い出深い教科書の1ページを思い出したこともいい経験。
いつもいつまでも自分の心と対話しながら歩いていこう。
自分自身を背かずに。あの草花のようにすがすがしく。

投稿者 春野桃 : 13:35 | コメント (0)

2007年05月15日

「みちくさ」

おかあさんが みちくさしてはダメと いつも いうけれど

どうして みちくさっていうんだろう?  みちくさって なんなの と きいたら

がっこうの かえりに ともだちと よりみちしたり のろのろあるいて おそくかえることなの だって

でも どうして みちくさって いうのかしら?

みっちゃんと みちばたに さいてた はなを とってて かえりが おそくなったことが あるけど

それを みちくさっていうのかな?   みちはな というんだったら わかるけど…

おじいちゃんに どうして おそくかえることを みちくさっていうの と きいたら

うまが みちばたの くさを たべて なかなか まえに すすまない から みちくさ というんだよ と 

いった  あたしは にんげんなのに うま と おんなじなの かしら?

それに あたしは くさなんか たべやしない みっちゃんのうちに よって おかしを もらって

たべたことは あるけれど…

 でも  おうまさんだって  みちを あるいてばかりじゃ  おもしろく  ないわよ!  きっと 

                                  (小学4年生の女子から届いた「詩」です)


投稿者 ZEN754 : 08:51 | コメント (0)

2007年05月11日

五月の桜

ゴールデンウイークが終わってしまいましたが、皆様、いかがお過ごしでしょうか。五月の桜に心癒される龍之介です。やっぱり、桜の花には人の心を魅了する何かがあるのでしょうね。
さて、美しいものを手元に残しておきたいという感情は人間心理の奥底に潜んでいる、という話を以前どこかで耳にしたのですが、その感情を自分も隠し持っていることを実感しました。
と言うのも、毎年桜の写真を携帯カメラに撮っては、それをしばらく待ち受け画面にしているのです。きれいな花というのはいつ見ても癒されるので、疲れたときに眺めるとそれだけで心が和みます。
過去には散った桜の花びらをパズルのように一枚の花として組み立て、咲いているような状態で押し花にしたのですが、1ヶ月も経たずにしおれてしまい、かえって申し訳なかったと反省したことがあります。ただ、写真ならいつまでも色あせずに保存できるので、誰にも気兼ねなく残しておけそうです。

そんな訳で、ゴールデンウイークの最終日は、特に予定もなかったこともあり、散歩がてらに近所の桜並木で撮影会をしていました。
きれいに咲き誇った木々を見ながら歩いていると、同じことを考えていると思しき人をちらほらと発見。デジカメや携帯カメラを片手に撮影する人、スケッチブックに桜の情景を描いている人など老若男女を問わず、たくさんの人が桜に見入っている様子でした。中には親子三代(だと思う)で花見をしているところもあり、実にのどかな光景でした。
こうしたほのぼのとした姿でもまた心が和まされます。

もしかしたら、美しい花のそばでは誰もが美しい被写体となれるのかもしれません。一つ一つが映画のワンシーンのように美しく彩られて、それを見ている人も一際輝かせる……だなんて、柄にもなくロマンチックなことを考えてしまいました。
現在、私の携帯の待ち受け画面はその日に撮った桜が写っております。桜の木の全体図を撮ったものとアップで撮ったものの二種類あり、今は全体図の方ですが、その日の気分でアップで撮ったものにも変えようと思っています。どんな気分のときに変えるかはまだ考えていないのですが。

あと、これだけは声を大にしてお願いしたいことがあります。
「花見に行った人はちゃんとゴミを持ち帰ってください」
美しい景色を美しいまま残すのが、人として美しい行為ですから。

投稿者 龍之介 : 00:02 | コメント (0)

2007年05月09日

笑えないこと

 龍之介さんの「笑顔日和」を読んで、「そうだよなあ」と心に染みるものを感じました。それに、色々考えさせていただきました。
 自然、「自分にとってふと笑顔がわいて来る時というのはなんだろう」と考えました。
 私はくいしんぼうなので、おいしいものを食べた時ももちろん笑顔が出ます。けっこう好みや趣味が細かい方なので、龍之介さんと違ってグルメリポーターにはなれないと思いますが……。
 あと、動物が好きなので、生き物を眺めているといつのまにか笑顔になっていますね。ちょっとした仕草が本当に見飽きなくて。
 龍之介さんが言うように、ふと笑顔がわいたその瞬間というのは生きることを実感している時でもあるんですね。
 意識して笑うのではなく、自然に笑みが出てきた時、というのは本当に気持ちがいいですから。そして日常、案外少ないことでもあるかもしれません。

 そんなことをつくづくと思ったのは、とある新聞記事を見て、ちょっと重たい気持ちになっていたせいもあります。
 最近、何かが起こるとわっと批判が集中する、みたいなのあるじゃないですか。学校批判とか、今時の何々は……とか。
 特にインターネットですね。私が読んだ記事でも、普通の人なんですけど、ある時ネットで批判的な文章があふれているのにふれて、気がついたら自分も他者を批判する快感に浸っていた、という。
 批判するのって確かに気持ちいいです。それに、お手軽なんですよね。人のしたことに対して何か言うだけなら、誰にでもできる。逆に、何かをうまくやるのって難しいから。

 少数の仲間はずれを作り出し、それを異分子と決め付け、攻撃することで集団の安定を維持する。それって、人間の持つ性質みたいなもので、だからこそ放っておいたらまずいもののはずですよね。だって、それこそ今、批判の的となっているはずのいじめと、要は同じなんだし。

 それが笑顔の話とどうつながるのか、というと、他人の攻撃ばかりしていると、肝心の自分自身の現実というか、人生を生きることがおろそかになったり、「心から笑いが突き上げてくる瞬間」を失ってしまったりすることがあるんだと思います。
 それって、生きがいや幸福を失うのと同じですよね。
 周りを見回してみれば、なんとなくわかります。職場でも、学校でも、いじめの首謀者に、幸せそうな人っていないですよね。
 いじめたり、批判する側にいれば一見安全だけど、でも失うものもある。考えるとちょっと怖いけど、でも考えなきゃいけないことですよね、きっと……。

投稿者 YUKI : 18:50 | コメント (2)

2007年05月08日

断食療法(1)

人間は食料の乏しさには対応できるが、飽食には弱いようだ。
同様に、食事の偏りも大きな問題となる。
「食生活」というように、生活の一部であり、人生の一部であるのだ。
生活を見直すことが大切である。

大昔、ヨガ道場で断食をしたことがある。精神修養をしたかったからだ。

道場の生活は、規則的である。朝から、マラソンを走った。
断食3日目になると、足が重く、歩くより遅いスピードになってしまう。
起床後、布団をもち上げることができずに、はぁはぁと言いながら、押入れにへばりつき、やっとこ、ようやく、ふすまを閉めたのを、思い出す。

午前中は、身体を積極的に動かす実習がつづき、そこで、呼吸法を学んだ。

午後は、自由時間であった。田んぼのどじょうをとったり、野草をつんだりして楽しんだ。

夜は、説法を聴いた。いろいろな講師の話がきけて、人生のおもしろさを知った。

復食期間は断食期間の二倍はかかる。メニューは朝が味噌汁だけ。昼はおかゆ。夜はうどんであった。

しかし、粗末な食事だとは思わなかった。自分に力を与えてくれるものにありがたさを感じたからだ。

やがて、ある種のすがすがしさを感じた。
生きとし、生けるものが、生かされている不思議。
生の中にいる自分をみた。


そして、また、がんばってみようという気持ちが沸き起こってきた。

投稿者 恵比寿 : 21:03 | コメント (0)

2007年05月06日

咲いた咲いた

転居先に持ってきたツツジ、ボケ、シャクナゲが花咲いてくれた。

移植の時期はちょっと遅かったので根付くかどうか心配していたが、
ちゃんと可愛らしくこの土地に馴染んでくれた。
昨年秋の終わりころ主人と肥料を施し水を沢山やり冬囲いをし戻り、
次の週来てみるとツツジが強風に倒されていた。
もう駄目かなとは思いつつも植えなおし帰っただけに、花の持つ生命力の強さに感激。
4月この地へきた私達を花を咲かせて待っていてくれた。

花も人間も環境さえ整ったならぐんぐん伸びるね。

庭の木は何の気かもまだ分からずにいましたが、
幹の模様で桜じゃないかと咲いてくれるのを心待ちしていた。
この連休桜があっという間に満開。とっても綺麗。
雑草達もぐんぐん伸びてきて、猫の額ほどの畑が雑草だらけ。
まだまだ段ボールを開けていない荷物達も
どっちを優先するといいの
早く種も蒔きたいし
でも、焦らない焦らない

まずはこの時期の芽吹きを感じながら
慣れない土地で自然と話ながら教えてもらいながらの
第二の人生の始まり始まりと。

投稿者 春野桃 : 11:59 | コメント (0)

2007年05月05日

稽古です

昨日は、遂に12時間寝ました。
この1週間は、事務処理の仕事がたくさんあって、
午前2時とか午前3時近くに帰宅し、朝6時半に起きる生活でした。
眠くないのです。
これはおかしい・・・
昨日は、ついに、寝ました。
身体が痛くなりました。
朝8時過ぎまで寝たので本当によかった。

明日は、
みんなが来ます。
せりふを完全には覚えていないけれど、
大体の流れはつかめたようです。

投稿者 城谷小夜子 : 21:10 | コメント (0)

2007年05月03日

大人のクイズ

ゴールデンウイークも後半を迎えましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。イレギュラーで登場の龍之介です。
ここ最近、木曜の深夜に書き込むことが定着していましたが、これから泊まりの旅行に出るため、今回はちょっと早めに書き込むことにしました。たまにはこういう変化があってもいいのではないかと勝手に思っています。

私は最近、『ビジネスマンのための大人のクイズ』という本を読んでいます(『華麗なる一族』は読了)。
大人のクイズと聞いて良からぬイメージをした人のためにあらかじめ言っておきますが、そういう系統のものではありません。エスプリ(機知に富んだ頭の働き)を活性化させるためのもので、柔軟な発想力を鍛えるための本であります。
簡単に言うととんちクイズ(もしくは意地悪クイズ)といったところでしょうか。
あれこれ考えても分からなかった問題も、答えを見ると「してやられた」と悔しさを感じることはあるのですが、この手があったかと妙に納得してしまい、ついついのめり込んでいます。
カウンセラーに限らず、多くの人と接する職業であれば、柔軟な発想は必要不可欠ですし、『ビジネスマンのための〜』と銘打っているだけのことはあるかもしれません。

ちなみにこんな問題がありました。
「アフリカのある部族が雨乞いの踊りを踊ると、必ず雨が降るそうだ。それはなぜか」
その部族が超能力者や予言者の集まりというわけでもなく、答えは実にシンプルなものでした。なぜならば、「雨が降るまで踊り続けるから」というのが答えだったのです。
言われてみれば、確かにその通りですね。雨が降るまでずっと踊っていれば、いつかは雨が降るのですから。
ただ、こんな注釈がありました。「本当になるまで言い続けることによって、それを信じる人が増え、誰もがその方向へ動き出すから、やがては本当になってしまう」と。
要するに、未来を誰かに委ねるのではなく、自分で思うような未来を作り出してしまえばいいということなのかもしれません。
とかくこの世は生きにくいものではありますが、こんな風に機転の利いた考え方ができれば、少しは上手に乗り切れるかもしれませんね。
では、最後にパソコンの概念を発明したアラン・ケイ氏の言葉で締めたいと思います。

「未来を予想するもっとも良い方法は、それを自分で発明することである」

投稿者 龍之介 : 08:19 | コメント (0)

2007年05月02日

自分を感じるテクニック

「優しくなりたい」「もっと生き生きとしていたい」「自分の気持ちに素直になりたい」等、


私は、今よりすばらしい自分を思い描き、そして心からそうなりたいと望んでいました。


でも、その気持ちが強すぎて……いつの間にか「なりたい」という気持ちが「ならなければ」と、自分を


がんじがらめに縛りつける鎖に変わっていました。 だから辛くて、辛くてしかたありませんでした。


「優しくない自分」は許せない。もっと頑張って優しくならなきゃだめだ!と心の奥底で自分を責めていま


した。でも、どんなに頑張っても優しくなれませんでした。


そこで、理想はひとまずおいて、ありのままの自分を見つめてみることにしました。

そして、やっと現実の自分の姿に気づき、受け入れたとき、初めて楽になりました。

そして、生き生きとして、自然に思いやりが湧いてきて、自分に素直になる事ができました。 合掌

投稿者 ZEN754 : 11:50 | コメント (0)