2008年01月24日
映画「ドッグビル」
映画「ドッグビル」を観た。
カンヌ映画祭で独特の手法で絶賛を浴びた映画だそうだ。
直訳すると「犬の村」。
なにか暗示的だ。
メイキングムービーを先に観た。
女優ニコールキッドマンが演技と現実を混同してしまって実際に苦しんでいた。
キッドマンの純粋さ、清楚さ、美しさがひと際目立っている。
そして俳優たちの演技が実にうまい。
それぞれに、役に苦しみながら3週間演じたのだろうか。
監督のグッドジョブだ。
その斬新な手法がいい。
実際の建物、道路を使わず、大きな体育館に平面図を描いただけで椅子やベッドなどわずかな家具を置いただけで撮影している。
畑を耕すのも、鋤を動かすだけで表現している。
言い換えると、まるで舞台の立ち稽古のようだ。
何もないが故に俳優の演技がレリーフのように浮かび上がる。
透明な背景に人物が遠近法で描写されるかと思うと、接写で録音し、密室を表現する。
この作品は実に深い味わいがある。
見終えると、ふーっと息をひとつ。
教材としてとらえると、とても興味深い。
いくつかの観点がある。
第一に、歴史的状況だ。
アメリカ西部の1930年代の大不況期の、貧しい廃坑の村の経済と人々の暮らし、その閉鎖された空間で人の意識がどのように醸造されていくのかが興味深い。
第二に、支配、被支配の関係がどのように生じ、維持されるか、という問題だ。
維持するためには役割意識が再生産されなければならない。
第三に、閉塞状況の中で、すべての人が同じことをするのだろうか。
ある特殊な状況に置かれた場合、ある行動をとるということが、一般化できるのかどうか。
あらゆる国で同じことが起きるのだろうか、という疑問が生じる。
普通の人々が、普通に生活しながら、迫り来る権力の増大の中で、圧迫を感じながら、権力側に知らず知らずにつくことに心地よさを覚えていく。
弱者を虐げることで心の安定感を得ていく。
相手が自分より弱ければ力を振りかざし、嵩(かさ)にかかって攻めることはないだろうか。
多少それで自分が強くなったように、正義を全うしたように思うことができる。
同時代にナチスドイツが台頭する。
ある意味では、独裁を許すか許さないかの違いはあるが、アメリカも暴力に支配された閉鎖的な状況になかっただろうか。
映画では、虚妄に包まれた愛とエゴがむき出しにされる。
なによりも普通の人々が主人公であるということが、重要なのだと思う。
そして、実際に、演劇指導をしたくなった。
投稿者 恵比寿 : 2008年01月24日 22:58