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2007年03月09日

イメージの束縛

皆様いかがお過ごしでしょうか。レミオロメンの「3月9日」が好きな龍之介です。
レミオロメンと言えば、「粉雪」が代表曲ですが、私は「3月9日」でレミオロメンの存在を知り、また歌詞がとても印象深かったので、こちらの曲の方が好きです。
色々とうまく行かないことが多い世の中ですが、空を見てそれさえも小さく感じられるように生きられたらいいなと、この曲を聴くたびに思います。

さて、早速ですが、前回出した問題の正解発表です(問題見てない人はこれを読む前に『時を越えて得る共感』を読んで下さい)。

さて、何でも変身することができる魚を発見したAに対して、BはなぜAの説を否定したのでしょうか。
正解は、「ありとあらゆるものに変身する生物が魚であるとは限らない」からです。
要するに、そのとき魚に変身していただけで、本当は花かもしれないし、蝶だったのかもしれないのです。ただ、そのとき見たものが魚だったがために、Aは魚が変身したものだと早合点をしたわけなのです。
Bがそれを指摘したためにAも納得したとのですが、答えを考えてくれた皆様はこれで納得して頂けましたでしょうか。
「言われてみればそうか」と呆れる方も、「何だそんなことか」とご立腹の方もおられるでしょう。でも、私はそれで納得してしまったので、こうして問題として出しました。悪しからず。

ただ、この答えを聞いたとき、「木を見て森を見ず」というのはこういうことなんだろうなと感じました。魚が変身したという局所的なもので、全体像を見た気がして、実は「別のものから魚に変身した」という本当の全体像を見失っているのですから。
ただ、最初の印象にとらわれて、それが自分のイメージとして形成(先入観として形成)されてしまい、やがて固定観念となってしまうというのは、とても恐ろしいことかもしれません。
日常生活でも、見た目の印象だけで、「この人はこういう人だろう(推定)」と判断され、本人の意思とは関係なしに、いつの間にか「この人はこういう人だ(断定)」と勝手に位置づけられるかと考えたら、とても不安な気持ちになります。
この問題をきっかけに、改めて先入観だけで人を判断していないか、自分自身に対する戒めのようなものを感じました。
人は見た目が9割とか言われていますが、決してそれが全てではないのですから。

投稿者 龍之介 : 2007年03月09日 00:02

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